
“タイムスリップ” いつかの鉄道少年
みなさんこんにちは!
オートパル南部店の赤羽です。
今回のこのコーナーは自動車から少し離れて(?)私の独断で鉄道ネタで地元である「飯田線」でいきたいと思います。
それはまだ私が小学生だった昭和40年代後半から昭和50年ころ、「モータリゼーション」は既に浸透していましたが、まだこの界隈自動車は良くて一家に1台あれば〜なんて時代でした。
出かける時の移動手段はまだ電車やバスが主であったと記憶しています。
そんなことがきっかけだったのか、よく覚えていませんが(?)私は電車に親しみがあり、よく駒ヶ根駅へ行って、やってくる電車や機関車を見るのが大好きな少年でした。
しかしある時、見るだけでは飽きたらなくなり家にあった親父のカメラを勝手に持ち出して写真を撮ったのが「飯田線撮り鉄」のはじまりです。
当時の飯田線は戦前の古い電車や機関車が走っていることで有名でしたが、そんな古い電車達も次第に廃車となり「飯田線だけの撮り鉄」も高校生くらいでやめてしまいました。
そんなわけで今回は、私が昔撮影した懐かしい写真の一部を、最近の光景を交えてちょっとだけですが紹介したいと思います。

昭和50年5月頃、伊那本郷付近を走るアメリカ製ED19形電気機関車が牽引する貨物列車。
昔ながらの田んぼやタンク貨車の「CALTEX」マークも懐かしい。この頃中央道もまだ開通前であり陸路のガソリン輸送のメインは鉄道で行なわれていたことが伺えます。

先日50年ぶりに⁉️ほぼ同じ場所へ行き撮影しました。
昔の田んぼは構造改善され道路の拡張などその様子は大きく変わっています…。何よりも当時見渡すことができた鳥居原方向は、樹木の成長で、もう見ることはできません。

昭和11年京阪神間の急行としてデビューした流線形が特徴のクモハ52形!
僅か6両が製造され「流電」の愛称で親しまれた。
初代新幹線0系のスタイルはこの流電をリスペクトしたという逸話があり、国鉄史上に残る名車!昭和32年から5両が飯田線で活躍し昭和53年惜しまれながら引退…

そう言えば中央新幹線計画(今のリニア)が発表されたのもこの頃だったと思います。当時は上伊那地区が計画ルートに挙げられたことでも話題になりそんなこともあってか?この流電のスタイルを「伊那谷新幹線」なんて言って新聞記事にも紹介されました。

かつて最大16両編成で東海道本線の主力として活躍した「湘南形」80系電車も最期は飯田線で余生を送った。

飯田線南部水窪〜豊橋間の普通列車は運用によって6両編成が存在した。 但しホームが4両分しかない駅はご覧の通り💦

多分昭和53年ころ田切〜伊那福岡を走るゲタ電。飯島側から中田切川、駒ヶ根方向を俯瞰。
現在写真の山の上にはナパックや住宅も建ち、この頃とは様子も大きく変わっていると思われるが、この場所もきっと樹木の成長で駒ヶ根側を一望することは不可能だろう。

貨物入れ替え中のED62型電気機関車の後方には伊南農協営農センターが見えます!
以上、懐かしい話と写真の一部をご紹介しました。こうして振り返ってみると、一瞬少年時代に戻ったかのように、記憶が鮮明に蘇ってくるものですね。
それではまた。





